文治元年1185年の屋島の戦いで天皇の身代わりを立てた本隊を下関壇ノ浦に向かわせ安徳天皇を擁した平家一門は密かに四国に上陸したという伝説があります。
林道ツーリングをしながらこの落人伝説のルートを走ってきたのでまとめてみました。
落人伝説のルートです
屋島で敗れた平家一門はいくつもの峠を越えて祖谷の落合集落にたどり着きました。
そこから四国山脈を越え吉野川にそって西へ向かい転々と避難の場所を求めた後、平家平にたどり着きました。
平家平は隠れ場所としては恰好の地であったが標高1600mの山中では食糧も窮迫しただろうし寒さもたまらなく、間もなくこの地を離れたそうです。
その後現在の本川村の稲叢山(いなむらやま)の山頂の洞窟に隠れ住んだそうです。しかしここも1500mの高地で食糧の調達に苦労し間もなくこの地を去りました。
稲叢山の名は、食糧困窮し天皇が豊穣を祈るため縁起を祝って命名されたそうです。
その後、山続きに大森川の流域に出て大森の岩窟にしばらく滞在したのですがここで非常な食糧難に陥り、一行58人が餓死したそうです。
かろうじて更に山奥へ入り、越裏門(えりもん)に到着しました。
駐留したのはこのエリモン小学校付近と言われてますが行在所のある殿舎の周りは垣をめぐらし警戒を厳重にし、門を設け武士が守衛したので衛門という地名が生まれたそうです。
(後に 衛門=衛意門の字は越裏門と書かれるようになったらしい)
その後、吾川郡池川町付近に行在所を構えて3年間過ごしたそうです。
そして最後にたどり着いたのが高知県、越知の横倉山。 ここに行在所を構えて1200年に崩御されたと伝えられてます。
行在所近くの山の上から見下ろす仁淀川、横倉山近辺には「都」という煌びやかな名前の集落もあります。
明治18年、宮内省により安徳天皇御陵参考地とされました。
この山には天皇に従って来た八十数名も同時に奉られてます。
以上が安徳天皇の伝説ですが、現在でも人間がとうてい住む事の出来ない地で、食糧も不自由で耐えられない寒さの中、800年も昔このコースを幼い天皇が転々としたとは考えにくいです。
たとえ事実ではないにしても、平家の残党が四国の山間をあちこち世を逃れて移り住み、密かに生活してきた事から多くの伝説を生んだのでしょう。
そのような事を想像しながら四国各地の林道を走るのもロマンがあって楽しいですよ!